たちばな し

休職と復職にかかる記録残しです。ビジネス論も少しあるよ。

Green turf

しばらくぶりでございます。

高校のとき、とある英語教師に出会った。元ロックバンドのボーカリストだそうで、それは友人から聞いた。当時はロックは聞いてなかったから「そうなんだ」程度にしか思っていなかった。テレビの音楽番組にも出ていて、イギリスのミュージシャンユニオンに加盟していたと知ったのは高校も出てしばらく経ってからだ。CDは高校を出てから集めた。

高校生といえば中学生に毛が生えた程度の思考力であった。音楽のトップシーンに籍を置きながらどうして田舎のしがない公立高校の教師などになったのか、直球で尋ねたことがある。

「なりたかったから」

彼は「肉じゃがの肉って言ったら牛だろ」とでもいうような感じで(といっても彼は東京育ちだ)言った。ロックスターといえば高校生から見れば「上がり」のポジションだ。「そうなんだ」と飲み込みはしたもののずっとずっと腑に落ちてなかった。誰もがなりたくたってなれないそんなポジションをするっと捨てて「やりたいこと」を取るなんて意味がわからないと。

それはひとえに私が無意識にステロタイプ思考にはまっていたせいなんだろう。今でも自分の勝手な前提で自縄自縛になっていると思うことがある。

でもようやくわかってきた。人生というものは無味無臭無色無価値で無意味だ。

だからこそ、自分で選ぶのだ。自分で味を整え、香りをつけ、描き、値付けをし、意味付けをする。それでもなお、いろいろな人が生きている間にする仕事とは大きく異なり、人生というそうやって「つくりあげたもの」は本人の死と同時に本人にとって終りを迎え、消滅する。(だろうし、実はそうではないのかも知れない)

録音されたものや録画されたものというかたちで彼の人生の断片は客観的には確かに消滅せずに残ったように「見える」かもしれない。「再生」できるかもしれない。しかしそれは出がらしですらない。本人の感覚や喜怒哀楽の出花をそのまま味わえる人は本人しかいない。隣の芝は常に青い。隣のテーブルの料理のほうが常に多く見えるしうまそうに見える。

他人の金でつまんねえ会席者と食う高級料理よりも、好きな人とあるいはソロ主義ならソロでどて焼きとチューハイ。彼にとって美味いのは後者だと彼は知っていたからそうした。それが「なりたかったから」なんだろう。

私はなりたいものをまだ見つけていないしだからそれに向かって踏み出してもいない。とある評価軸からすれば不幸な人生を送っているように見えるはずだ。実際のところ今この瞬間に終わってしまってもまあ良いやと思ってるくらいだからそうなのかもしれないし、実は今が常に幸せだからそうなのかもしれない。正直なところ全くわからない。

彼が作詞に関わった「I'm gonna sing the blues」を聴き、いろいろなうわさ話を聞き、どこかで「ロック嫌(きら)いなんだ」というのを聞いたりしながら、「やりたいことができるという幸福」というものの価値について考えている。

https://youtu.be/cGYvhlChobs