たちばな し

休職と復職にかかる記録残しです。ビジネス論も少しあるよ。

メモランダム8

 有名な自己啓発書に「7つの習慣」(スティーブン・コビー著)というのがありまして、私は不勉強な質で通読してはいないのですがその中に「理解して、理解される」というのがあるそうなんですね。

 私が大学を出る頃は就職氷河期で就職活動能力も本当に低かったので就職は失敗しました。当時はコピーライターになりたくて電通の関連会社に勤めている伯父のつてで電通の方を紹介していただき、話もさせていただいたのですが、あまりに私が間抜けなあまりエントリーしようとしたのが締切日翌日であまりの恥ずかしさに伯父にも紹介していただいた方にもお詫びもできず母は伯母からチクリと言われたことがあったそうです。その伯父も間質性肺炎で鬼籍の人となり、お葬式の折に伯母に不義理をして大変申し訳なかった旨を伝えることができましたが、当の伯父には遺影前での謝罪となり、義理は生きているうちにやっておかねばならないと学びました。

 それでしょうがなく大学院に進学しました。しょうがなくでもいる場所があったというのは本当にありがたいことでした。結局精神的不調もあり論文もかけず単位は取ったものの修了はできなかったわけですが。俺本当に親不孝だから流石に先に死ぬわけには行かねえなこれ。ともあれ、しかしながらまたしても挫折を味わうということで、挫折している/した人への共感能力というのは大変身についたのではないかと思っています。「学部も院も行ってんじゃねえか何が挫折だよ」と思われる方もあるかもしれませんが、標高10mのところから0mのところに落ちようが、標高3000mのところから標高2990mのところに落ちようが、10m落ちたら10mぶん痛いということには変わりないので、どうかそこのところはご理解ください。

 で、大学院で学んだこともいくつかあります。いくつかしかないのかと言われれば顔向けができませんがお許し下さい。ひとつはTwitterでも人気のアレですが「その分野については素人なのですが詳しく教えてください」の背筋が凍りつく感じですね。その分野の総論が著作にある、名のある学者からそう言われるわけです。本当に怖い。専門家であればうっかり手抜きをしたところにはかならず突っ込みがあります。蟻の一穴ってやつですね。小さな穴も本物は見逃してはくれません。
 2つめは「原典に接しろ」ですね。孫引きはダメだと。孫引きだと引用者の主観という雑味が混ざるから原典だと。だから外国語の著作を原典で読むために第二外国語をやります。これは今でも私の生活に生きていて、英単語を辞書で引く際にラテン語の原義がもしあればそこは必ず読みます。訳で覚えるということは絶対にしません。その単語がどういうイメージやコンセプトを言語化したものかというところを吸収すると、場面場面でふさわしい英単語を選びやすいですし、お決まりの前置詞も間違えにくい。少し寄り道しましたが、原典に接するというのは業務に関わる態度としての基礎の一つになっています。

 いつの頃かはこれも覚えていないのですが、2ちゃんねるに入り浸っていた頃がありまして、そこのニュース速報+板にほぼ常駐していた頃があります。で、「粘着」っていう人がいるんですね。同じスレッドにいて同じようなことを延々と書いては色んな人から突っ込まれる。でもそのひとすごく粘着してるんですがコミニュケーションはできたんで、彼の主張に則ったんですね。「それはこういうことか」「そうするとこうなるはずだがこれであってるか」「ではこの場合はこうなるはずだが合ってるか」と。で、「そう。」「そうだ。」「そうだ。」と。どっちが粘着だかわかんないくらいに質問して答えを引き出して、「それでなんだけども、その主張からだとこういう穴があってこういう結論にならないか?」と問うと、幽霊が成仏するようにその粘着さんは粘着をやめました。これも貴重な経験でした。本当に味方になったと実感してくれると対立する意見でも受け入れてもらえると。そういうわけで、説得したい場合は「どうか聞いてくれ」というスタンスはないです。相手の置かれている立場と主張を理解しようという行動から私は始めます。そのほうが遠回りだけど同じ目線を先に共有するので相手も話しを受け入れてくれやすいのです。こちらが説得する背景を話すのはそれからです。(ひょっとしたらしょうがなく受け入れてくれているだけかもしれませんが相手は理解のある素晴らしい人と思っていたいです。)

 そこで冒頭のやつなんですが、どうやら原著には「Seek first to understand, then to be nunderstood」とあるようなのです。繰り返しますが原著は読んでないのでひょっとしたらこうではないのかもしれませんし、仮にこの見出しがあるチャプターがあるとして、これから私が書くことがすでに書かれているのかもしれません。あるいは私が全面的に間違っているかもしれません。
 「Seek first」なんですよね。まず。「(理解しようと)求めろ、捜せ、努めろ、得ようとしろ」なんですね。それが最初で。もちろんその努力の結果相手を理解することがひょっとしたらできるのかもしれませんそれはあくまで結果論です。100%の理解など架空のお話です。わかり合うことなどすべての海水のうち10ccほどの分量にすぎないでしょう。大事なのは相手に「私は理解しようとされてその労力もつぎ込まれており、かつ理解されている」という実感を与えることができるかどうかだと思ってます。そこをすっ飛ばして「理解したら理解してもらえる」なんつうお手軽な話じゃないんですよ。あのね、この訳悪訳もいいところだと思います。理解しようという熱意が相手に伝わったときに相手も心を開くということであって、勝手にわかった気になって「だからお前もこっちのことを理解しろ」ってことじゃないですよ。
だって、理解し合ったはずの結果結婚したカップル大勢離婚してくんですよ。分かった気になってたら大間違いってことです。

 ちなみに(今の)上長が私(1人宛てとは限らない)に言ったことのうち、初めて言われたのがとある集まりに私が行きたくないと回答した折の「ぜひそういう人に行ってほしいなあ」です。これ反論しても時間・精神力・労力、全てが無駄になるとすぐわかりますよね。で、これと「理解して理解される」の誤った理解とを組み合わせると「俺は理解している。お前が俺を理解しろ。だから俺の言うことに従え」というパワフルなワードになるわけです。こちらは「人の話聞いてねえだろ」という不満を抱えたまま仕方なく従うことになります。これは不幸でしかありません。(もちろん両者にとってです。)